「生」と「死」の狭間

 2022年 7月8日


寧比曽岳


「生」と「死」の狭間を行き来する登山であった。


朝から衝動に駆られて、山へ行く。

天気もよく、気持ちの良い登山日和だ。


しかし初めての山は少々緊張がある。


朝一番だったので人も誰もおらず

電波も届かない山奥だったため、

もしも何か起きた場合、誰も助けを呼べない状況だ。


さらにどこの山へ行くと誰にも伝えていなかったため

滑落などして何か起きて動けない状況になったら

「本当に死ぬなぁ」と思いながら

山を登った。


その「死」に対する

不安や恐れは「生」を実感させてくれて

「生きる」という本能を蘇らせる。


「死」を隣り合わせに感じながら、登る山々はワクワクも同時に隣接する。


登りながら色々と脳内が「死」について走馬灯のように駆け巡り、自分が死んだ後ことを考えていた。


仲間たちのこと、家族のこと、仕事のこと。


自分の特性は「死」に直面する機会があればあるほど「生」を感じ、生きている実感をする。


そのように生きているといつか死ぬと自分でもわかっている。


しかしそれが特性なのだから、やめられない。


生まれ持った才能とも呼べる、このリスクジャンキー。

自分のことを俯瞰して内観して観察したからこそ、自分が一体どんな状況が一番わくわくするのか、楽しさを覚えるのか。


山を登りながら、自分の「死」と向き合い、興奮する。

(これだけ聞いてたら、単なる変人だ笑)


ここ感じたのは、単なる自己満で死ぬなら良いが

仲間たちがおり、家族がおり、一緒に仕事をしている方々がいる。


ここからが今回の登山の氣付きだ。

「その残された人たちはどうなるのか」


今動いている仕事のことや財産的なものたち。

財産と呼べるほどのものはないが、動いている流動的なものはある。


いつか死ぬタイミングで考えていても、いざそのタイミングが来たら、放浪としてしまう。

だからいつ死んでもいいように、遺言書ほどではないが

死後どうしてほしいのか、家族含めて伝えておこうと思った。


そうしておけば、安心して氣にせずさらに攻めることができると思ったのだ。


この攻めの姿勢が自分の人生を創り、自分の特性により一層磨きをかける。

心身共に常にベストの状態でいることが、より楽しさやわくわくを生み出す原動力となる。


そんなこんなで山から戻ってきて

自分の在り方を見直し、身辺整理をした。


そして夜、母親と映画を見に行くことを約束していたので、映画館に向かい、始まるまで数分間に

今日の山での心境を伝え、ちゃんと山に行くときは、どこの山に行くかは必ず誰かに伝えておく。

とちゃんと話をして、映画を鑑賞した。


山へ行く際は必ず誰かに伝える


「生」と「死」の狭間の登山

自分の人生をより深部まで向き合い、氣付きを与えてくれる


Today is a grateful day for me





To be continued

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